生ハムと暮らしている

すぐ忘れるので文字にしよう

すべての残酷さにも表目がある

7/13

低迷の朝。

鉄だか糖だかを摂ればいいんだろうとドライプルーンを齧ってなだめる。

 

あまり熱心には追いかけていないが、たまに超絶ルックスのいい男性グループをキャッチアップしている。

異性だからか、不思議と自分の延長に彼らを置かないで済むというか、その華やかさも努力も憧れや慈しみよりは純粋にコンテンツとして楽しめる気概がある。

だからこそ、全面的なナルシズムとか「顔が売りなんで(笑)」というような強かさ(その逆、自虐なども含めて)には好感を持っているけど、どちらがより残酷なのだろう?

まあ、状況によるか。すべての残酷さにも表目がある。

 

引き続き案件が始まらず、なんだかタスクが枯れており、かと言って職場にいる状況であまりやりたいこともない。これが時間を売ってお金にするってやつ。

この日記をまた書きはじめようかと思ったきっかけの文章を読んでみたりするも、心ここにあらず。

そのうえ、今日はイヤフォンを家に忘れてきてしまったので、このごろお気に入りの、気分を揺さぶる音楽も聴けないのであった。

こんな日もあるのだなあ。みつを

 

自叙だが、ここ1,2年ほど、髪を伸ばしている。

16歳くらいから基本的にショート〜ミディアムボブを行ったり来たりしておりずいぶんしばらく長い髪だったことはないが、「20代も終わるし?」という程度の思いつきでなんとなく、切るのをやめた。

過去は、自分の太くて量の多い髪を呪ったもので、特に90〜00年代はスカスカのシャギーがトレンドだったけど、周りと同じような前髪や2つ結びをつくることができなくて。しかし短めのヘアスタイルではどちらにせよ小まめにカットしないといけないし、いつしかコンプレックスの意識も薄らいでいた。

年齢を重ねてロングヘアになった今、改めてこの毛量を痛感させられ、ドライヤーの労力には常々辟易する。が、これも私の持ち物なのだと快い気づきだった。

むしろ長ければ長いほど豊かさは特長的で、根気強く伸ばした髪はそれだけでstrengthになったりする。こういうことでも自己表現なり自己肯定は作り上げられるという、シンプルな学び。

自分のこと、好きになれるといいね。と、過ぎゆく時間に想う。

 

▼今日はメシの写真しかないですね

f:id:kaaamadax:20200714002001j:image