健康の綻びを無視し続けるメンタリティ
10/5
朝起きたら生理痛と気怠さがあり出社を遅らせた。
天気が悪いのもあり薄暗く、朝が始まってすぐに起きた感覚がある。
そんな中、機敏には動けないのでナマケモノのようにゆっくりとお茶をいれたり洗濯ものを畳んだりして時間をやり過ごす。
その間も心は静かで、快くもある。
こんなふうに単純作業を繰り返して、その間朝の空気を吸って、夜明けの寒さや雨の音を聞くだけの差分に日々を潰していくのも悪くないなと思う。
最近流行っているのかわからないけど、YouTubeで「手取り◯万だけど豊かな暮らし」みたいな動画がちょこちょこサジェストされ、昨日それらを見てみた。
多分やや感化されて先ほどのような気持ちの湧泉があったのだけど、悪くはないなと思う反面、動画の中のペット(犬、猫)に引っ掛かった。
これを見たことに限らず、昔から「働きたくない」ひいては「人間関係や経済活動の刺激に置かれた日々を捨てたい」的な欲求はあるのだが、ぼんやりとそれすなわち極限まで収入が減ること、最低限の支出で生活することだという意識が横たわっている。
一応社会人を続けて多少なりとも上昇した収入に比べ、今も比較的家賃や食費などのベースの費用はあまり使わない生活をしているけれど、それを飛び越えて、余剰への投資を惜しまなくなった自覚がある。
パンを買わずに、ケーキを食べている感覚。
例えば好きだなと思うアーティストがいて、社会人になりたての私はその画像を集めたりコピーして部屋に飾ったりしていた。今は何冊かの作品集を持っている。彼はドイツで活動をしているので日本に来る可能性はかなり低いが、仮に展示があれば必ず出かけるだろうし、海外旅行の予定を立てているときに万一彼の展示期間と被っているとわかったりしたら、あえて予定をずらしてその土地に訪れたりするかもしれない、という夢を描くくらいはできる。
永続的な節制の生活というのは、コピーして部屋に飾る以上のことを、一度自分とは関係のないことだと切り捨てる意識のもとで生きるということだ。(まあ他との兼ね合いで本くらいは買えるだろうが、それでも高い買い物だ)
衣食住のコストカットに何ら問題ない気がしていたけど、それは悲しいことだと思った。
もう一つは、健康のこと。
いざ歯が痛めば治療には直近数万という金がかかったりもする、継続して関節の痛みに苛まれれば、通院には毎回数千円程度の支払いが発生する。
歳を重ねれば、こういった出費は数倍になるだろう。
それが身を切るような出費に感じられたとき、ましてや支払いを躊躇って小さな健康の綻びを無視し続けるメンタリティを強いられたとき、私はこれでよかったと思えるだろうか?
話が長くなったが、多分ペットを見た時に余剰と健康のことを一度に想起したのだと思う。
もちろん動画に登場しているので、彼らは彼らの収入をやりくりしてペットの世話をしているのだろう。ただそれはまずもって、多くはなかったとしても働いて収入がある前提のストーリーだ。
私は働きたくないんだ!もっともっと収入に関わる行動を拒否したい!今!すぐにでも!!なのに!ケーキを前に涎を垂らす悲しみを感じている!!!キエー!!!!
答えなどない。
精神の周期の中で漫然とくよくよしているだけ。(そもそも甘えたこと言ってるしな)
しかたがないので友人に電話して、くだらない話をして、少しだけ思うところを吐露したりして、自分をなだめた。
▼などと宣いながら部屋を飾る