思い出が今を生きる糧になり
7/30
ヨーグルトを切らしてしまったのでアボカドを食べる。
切ってみると青い。それも相当に。
買った時もほとんど茶色だったし、それでも2日くらいは置いておいたはずなんだけど…最近こういうアボカドに当たることが多い。もう採った段階で性質が決まっていて追熟しないんだろうか?これはこれでありだけど、剥いてしまってからできることはあるのかな?
→バナナやりんごといっしょに保管すると追熟しやすいらしい。また、よく熟れたアボカドと同じ食感にはならないが、覆ってレンジでチンすると青臭さが抜けるそう。
ググり様々である。インターネットがなかった頃の大人たちはこういう知識をどうやって手に入れていたのだ…とんでもなくゆっくりとしたスピードで…?
と、デジタルネイティブみたいなことを言ってみる。
午後に地震速報が鳴りましたね。
周りの同僚たちもそうだが、私も特に動じず仕事を続行。
もちろん本当に大きな揺れを感じたらすぐにドアを開けて机の下にもぐるぞという気持ちはあるが、こういう慢心が…でも気持ちは…でも慢心…。
何もなかったことがわかってふと思うのは、器のこととアートのことだった。
もし家にいて何か守るとしたら、それだろう。絶対に取り返しがつかない。それでいて、私の家をたらしめるアイディティティそのものだ。
元来あまり思い出のモノへの執着がなく、申し訳なくは思うけど贈り物なども使ってあげられないものは捨ててしまうことも多い(譲れるようなものだったら売るし譲る)。
そう考えると改めて引き出物という文化は本当に狂っているので、今までカタログにしてくれた友人は心からありがとう。大体美味しく頂きました。
でももっと自分が歳を取って、もっと記憶が曖昧になったら、写真(やそのデータ)などを持ち出すのだろうか。
かつての友人たちとの旅や、両親との思い出が今を生きる糧になり、そしてそれを上手く思い出せない自分を省みたりするのかな。
写真や動画はクラウド化しような。
▼なんら関係ないけどカメラロールにあった「全然歩いてない日」のキャプチャ