哲学の赤子
10/21
こんなのんびり日記を書けるのはいつまでだろうか。
夏以降、甘えたワークライフバランスに乗じて、すっかり仕事中の集中力が途切れた瞬間を見計らって日記をしたためることが習慣になってしまった。
今のオフィスは、周りを見ると大変忙しそうである。
ただ、今、今まさに私が仕事として引いている来月のスケジュールは恐ろしいほどの余裕。これ、許されるのか。一応言われた通りには書き出しているけど。
帰り道、新宿駅で、急に目に留まった。大きめのリュックを背負った男性が手に持っている、掌ほどの小さな紙袋。
瞬間、これは小さくない意味のあるプレゼントだと感じた。シンプルな色柄だが厚みのある質感で、シールの封がしてある。今日も誰かの記念日なのだ。爽やかな気づき。
人間としての仕事に戻ろう。
昨日の自己愛についての思考の続きを。
こういう答えのないことを延々考えるのは人生をかけて幾度となくやってきて、哲学者ってまじで中二病かよと思うんだけど、自分も間違いなくそうだから怖いので哲学書は読まない。
物心ついてからの継続で、さすがに自分の中での答えが出ていることがほとんどになってきた。まあ思いつくことしか考えられないのが人間なので、当然といえば当然で、この世界で私は哲学の赤子だ。中二から若返ったな。
すべての感情に関心(愛)はあって、そこに第三者との関係性があるかないかで性質が変わる、と仮定する。
第三者の登場によって生まれる独占/陶酔などの感情、それが自身に最も強く向いているのがナルシシズムであり、また、具体的な言葉に置き換えたとして、たとえば対象に嫌われたくない/他者より自分を見てほしい/対象が他者より優れていると信じたい等の欲求は、すべて自分発着なのでめちゃくちゃ簡単に満たすことができる。すげえセルフサービス。満たされるかどうか考える時点で非常に混乱し、循環参照みたいだな…と思った。Excelの。
つまり、仮に愛のうち性愛としての同性愛を一切持たない人間がいたとして、自分という対象に関心が高くかつ第三者を意識した独占/陶酔が強い状態は、共依存性をもつ友愛みたいなことではないだろうか。
自分は自分に強い関心と精神的交流があり、嫌われたくなくて、独占したくて、その素晴らしさを信じたい。考えれば考えるほど、程度をわきまえたナルシシズムって猛烈に健全な精神状態ではという気がしてくるな。程度の問題か、結局。
つまりにつまり、ナルシシズムと自己愛は別のものだ。まったくもって。
自己愛だって結局は、自己陶酔の側面も自己肯定の側面もある。愛は菩薩。無数の顔。私が苦しめられている自己愛については、またこの秋の夜長に考えることにしよう。
▼ミルクティーを入れすぎた