生ハムと暮らしている

すぐ忘れるので文字にしよう

小さな扉から

10/8

なんか脚が痛いなって思ったら、昨日久しぶりにヒールを履いたせいだと気づいた。

筋肉痛だ。

 

しばらく膝を傷めたことの付随でスニーカーやフラットシューズばかりを履いていたけど、それも半年くらいのことだ。

そのくらいの時間があれば、人って簡単に筋肉の使い方を忘れられるもんなんだな。

 

昼に誘われて外食をした。

弁当を持ってきていたけど、いいですよ、と誘いに応じた。

そもそも直行の外出で午前が潰れる前提でいたから、傷みにくく嵩張らない食材で弁当を作ってきていた。

でも、こういうとき、少しだけ誘われるかもしれないなという想定をして準備しているところもある。

 

本当は誘われたいんだろうか。

多分そうなんだろうな。

終わってみれば疲れるだけと分かっているのに、それがどんなに些細でその人にとってはとるに足らない瞬間でも誰かに必要とされている霞を掬わずにいられない承認欲求に生かされる私よ。

 

やめましょやめましょ、今はやめときましょ。

 

小さな扉から自己嫌悪の巡廻が始まりそうな予感に動悸がした。でも思い出せば動悸がするほどの自己嫌悪なんてもう5年くらいやってないからびっくりだなあ。大人だもんなあ。

とか言ってこういう感情を過剰な言葉で早口に語るあたり恥ずかしいくらい変わらない自分らしさを感じるな。

 

ここ2,3日、アボカドをバナナの近くに置いておいたからきっとじゅくじゅくに熟れているに違いないと二つに割った。

何の抵抗もなく皮が剥ける柔らかい果実。

ただ実に対しての種の比率。お前は自由でいいなあ。アボカドよ。

 

急にスイッチが入って冷凍のエビとアボカドでチリソース炒めを作ることにした。

チリソース、ケチャップ、オイスターソース、醤油。はちみつ少し、お酢少し、胡椒少々。

なんか適当だけどこのくらいの調味料を混ぜてぺろりと味を見ると、大体それらしい味。

自炊を続けてきた自負、満ち足りて。

初めに卵を油多めで炒めて一度皿に出しておく。アボカドも少し柔らかく火を通して別皿へ。もう一度薄くラードを引いて水の出そうなエビとブロッコリーを蒸し焼きにする。

水分が飛んだら合わせ調味料を入れて味を馴染ませ、火を止めてから水溶き片栗粉を加えた。

最後に半熟の炒り卵とアボカドを混ぜて完成。

 

これだけ聞くととっても美味しそうでしょう?

でも実際に出来上がってみたら、ぼんやりと味が薄い。期待させてかたじけない。

水溶き片栗粉の量、間違ってたかなあ。

 

▼種の比率

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かわいい直方体と四角い豚バラ

10/7

仕事がひと段落。

 

家族に相談したいことがあって連絡をしておいたのだが、私が気にしていた1/10くらいの軽さで快諾されてびっくりした。

そのうえで関係者に状況を伝えると、こちらも私が気にしていたことはまったく意に介さず話に乗ってきて、またびっくり。

正直自分は結構フットワークが軽いほうだと思っていたし、家族、特に母親はかなり慎重なタイプなので(適当な父と慎重な母から適当な私が生まれた)、自分以外の周囲の人間による大いなる川の流れに飲まれる形であれよあれよとものごとが進み意表を突かれた。

 

帰ったらポストに2021年のカレンダーが届いていて嬉しい。

去年、つまり2020年のものを買い逃して、ずっとブックマークで眠っていてもらったので感慨もひとしお。来年が楽しみだな。

味のある刷りの品物で、梱包も作家さんのモチーフがプリントされた可愛らしい厚紙から手作りしたと思われる箱ばこである。

頼んだいくつかの品が箱に入って組み合わされ、テトリスみたいになっているが、物が入るには中途半端な小さい箱もある。

開けてみると空箱で、ポスト投函扱いの配達中に品物が潰れたり折れたりしないためのものみたいだ。

隙間を埋めるために生まれてきた掌サイズの空箱。なんて…いじらしい…。

 

ただ当然そのままだと嵩張るので、箱を開けて平たくして、紙ものの引き出しにしまった。

 

豚バラのブロックを仕込んでから寝る。

先ほどたくさんの可愛い直方体を見たので、角煮くらいの大きさにカットした四角い豚バラもなんだか可愛く見えてくる。漁夫の利。晴天の霹靂かもしれない。

あの台湾の角煮みたいな石も、晴天の霹靂って思ってるかなぁ。

 

ちょっとだけ甘いものが食べたくなって、ファッジ(英国のキャラメルみたいな落雁みたいなやつ)をひとかけら出したが、なんだか甘さが受けつけなくて数mmだけ食べてラップに包んで冷蔵庫にしまった。

あんなに由々しかった食欲はどこかに行ってしまったみたいだ。

へんなの。

 

テトリスのまま写真撮ればよかった

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いつかのために今頑張るつもりはねえ

10/6

昨日は友人と話して気が楽になった。

いつか社会とも経済ともかけ離れた生活をするために、真っ当に資産運用する説と遊牧民になる説を検討しいずれも潰えて終わった。(ちなみにこの話は友人を交えて何度も議論されており、誰かが抜け駆けすることは想定されていない)

要約すると、いつかのために今頑張るつもりはねえ、そして我らに運もスキルも展望もあったもんじゃねえ、という元も子もない話なのだが、別にそれをスローガンに政治でもやろうってわけでなし、なるようにしかならないからくよくよすんのやーめた。

 

今日も家に帰ったらお味噌汁があるから、夜の空気を吸いながら1日を終えよう。

月の周期にまつわる精神の不安定さで、将来のことを考えるのはやめたけど、静かに生活のための行為を敷き詰めて余暇を過ごすのは構わないだろう。

経済とも社会とも断絶されたら、さらにこういった意味のない逡巡でくよくよしたりするに違いないので、ものすごい巡りめぐった矛盾を抱えている気がするけど、今は思考停止に生きる。生きてるだけでOKなので。

 

そもそもこの間もなにかと後回しにしているタスクがあるような気もするが…人とはそういうものだ…。

 

▼つつまし

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健康の綻びを無視し続けるメンタリティ

10/5

朝起きたら生理痛と気怠さがあり出社を遅らせた。

天気が悪いのもあり薄暗く、朝が始まってすぐに起きた感覚がある。

そんな中、機敏には動けないのでナマケモノのようにゆっくりとお茶をいれたり洗濯ものを畳んだりして時間をやり過ごす。

その間も心は静かで、快くもある。

こんなふうに単純作業を繰り返して、その間朝の空気を吸って、夜明けの寒さや雨の音を聞くだけの差分に日々を潰していくのも悪くないなと思う。

 

最近流行っているのかわからないけど、YouTubeで「手取り◯万だけど豊かな暮らし」みたいな動画がちょこちょこサジェストされ、昨日それらを見てみた。

多分やや感化されて先ほどのような気持ちの湧泉があったのだけど、悪くはないなと思う反面、動画の中のペット(犬、猫)に引っ掛かった。

 

これを見たことに限らず、昔から「働きたくない」ひいては「人間関係や経済活動の刺激に置かれた日々を捨てたい」的な欲求はあるのだが、ぼんやりとそれすなわち極限まで収入が減ること、最低限の支出で生活することだという意識が横たわっている。

一応社会人を続けて多少なりとも上昇した収入に比べ、今も比較的家賃や食費などのベースの費用はあまり使わない生活をしているけれど、それを飛び越えて、余剰への投資を惜しまなくなった自覚がある。

パンを買わずに、ケーキを食べている感覚。

 

例えば好きだなと思うアーティストがいて、社会人になりたての私はその画像を集めたりコピーして部屋に飾ったりしていた。今は何冊かの作品集を持っている。彼はドイツで活動をしているので日本に来る可能性はかなり低いが、仮に展示があれば必ず出かけるだろうし、海外旅行の予定を立てているときに万一彼の展示期間と被っているとわかったりしたら、あえて予定をずらしてその土地に訪れたりするかもしれない、という夢を描くくらいはできる。

 

永続的な節制の生活というのは、コピーして部屋に飾る以上のことを、一度自分とは関係のないことだと切り捨てる意識のもとで生きるということだ。(まあ他との兼ね合いで本くらいは買えるだろうが、それでも高い買い物だ)

衣食住のコストカットに何ら問題ない気がしていたけど、それは悲しいことだと思った。

 

もう一つは、健康のこと。

いざ歯が痛めば治療には直近数万という金がかかったりもする、継続して関節の痛みに苛まれれば、通院には毎回数千円程度の支払いが発生する。

歳を重ねれば、こういった出費は数倍になるだろう。

それが身を切るような出費に感じられたとき、ましてや支払いを躊躇って小さな健康の綻びを無視し続けるメンタリティを強いられたとき、私はこれでよかったと思えるだろうか?

 

話が長くなったが、多分ペットを見た時に余剰と健康のことを一度に想起したのだと思う。

もちろん動画に登場しているので、彼らは彼らの収入をやりくりしてペットの世話をしているのだろう。ただそれはまずもって、多くはなかったとしても働いて収入がある前提のストーリーだ。

私は働きたくないんだ!もっともっと収入に関わる行動を拒否したい!今!すぐにでも!!なのに!ケーキを前に涎を垂らす悲しみを感じている!!!キエー!!!!

 

答えなどない。

精神の周期の中で漫然とくよくよしているだけ。(そもそも甘えたこと言ってるしな)

しかたがないので友人に電話して、くだらない話をして、少しだけ思うところを吐露したりして、自分をなだめた。

  

▼などと宣いながら部屋を飾る

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どこであれそこは

10/4

朝、なんだか甘いものが食べたくて、最後のスコーンを解凍した。

今日も今日とてまるでケーキ。変わらずおいしい。

 

取り急ぎ、昨日さぼっていた洗濯ものをぶち込み、ゴウゴウと回っている間に荒れた部屋を少しずつ元に戻す。

日記を書き始めてから、荒れた部屋をもとに戻す作業は3回目くらいだろうか?

月に1度くらい部屋を荒らしてしまう習性があるようだ。

 

掃除機までかけて、大好きな部屋が再現されて満足した。心地よい。やっぱり部屋が好きだな。

 

引っ越す前の、青いものばかりに囲まれた部屋も大好きだった。

あの頃に戻りたいということではなく、これまでもこれからも、私は自分の部屋が好きなんだろうなと思う。

 

私にとって、実家は生きづらい場所だった。

家族とは特段の不和があったわけではなく、シンプルに衣食住の趣味が合わなかった。

だから転勤族だった私が中学生になって初めて自分の部屋ができて、それは空調もなく北向きの曇りガラスがはまった薄暗い4畳半だったけれど、まごうことなき城だった。

ときに籠城し、ときに崩落しながらも、自分の持ち物で空間を定義できる素晴らしい経験が始まった。

 

当初、私の部屋は物が多かった。

これまで個人に由来した場所に特定されずバラバラの天袋にしまわれていたようなものものは、4畳半に雪崩込み、溢れ返っていた。それでも私はその床の見えない部屋でも自分の必要なものがどこにあるかを知っていた。

突如、私の部屋は綺麗になった。

「こんまり」さんの本がきっかけだったが、決して従順な読者ではなく、はじめの1/4程度を読んだだけでコロッと気持ちが入って、急にものを大量に捨てた。それでも私は持ちたいものを持っていたし、変わらずその部屋にいた。

それから私は、がらんどうになった部屋を飾るようになった。

100円で買った額にパソコンでOA用紙にプリントした写真を入れて壁に掛けた。

コンビニ振り込みでネットショッピングをして、気に入った柄のファブリックをぴったりと椅子に掛けた。

幼稚園の頃から使っていた冴えない洋服ダンスは、脚を取り付けて緑色に塗った。

 

買えるものにも置けるものにも限りがあったけれど、寒くて暗いその空間で、私は長い時間を過ごした。

 

今の私には、あのころから思えば夢のようなアート、器、ファブリックと、選りすぐった照明がある。偶然かもしれないが、大型の家具にはあまりこだわりはないので、それらだけ持ち運べばどこであれそこは私の大好きな部屋になる。

 

次の部屋は和室もいいなと思っている。

どこであれそこが大好きな部屋になる証明として。

 

▼青かった頃

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幸せ者の邂逅

10/3

飲みすぎた。知ってる知ってる。

同居人が買い出しに行くというのでお遣いを頼んで、五苓黄解(ごれいおうげ、後から飲んで一番効く飲みすぎ・食べすぎの内服薬、酒飲みの合言葉です)を買ってきてもらう。

久しぶりに飲んだが、効くわりにまずくない。マズパ(マズイパフォーマンス)が高い。

 

全快はしていないが、二日酔いのときこそ食べられれば食べたほうがいいので、とりあえず昼食をとる。

冷凍していた玄米と、もずく、トマト、残りの鶏ハム。

 

明日は天気が崩れるかもと予報を見たが、今頑張ってもダメな感じがするので事前に自分に断りを入れ、洗濯は諦めることにする。

先週末のゾゾディグ(ZOZOTOWNの掘り出し物発掘)の成果物がしっかり届いており、派手なネックレスやら髪留めやらが詰まった箱を開け、寝っ転がったまま取り出しては放りだす。

あ~ダメ人間。

でもそんな自分も受け入れていこう。生きてるだけでOK。

 

居眠りしたりちょっと家事をしたりを繰り返して、夕方にはさすがに元気になった。

なんてったってまた飲みに行くんだもんね。

 

18時、東京駅。

久しぶりの邂逅。

邂逅というととんでもなく大げさだが、友人と普通に約束して待ち合わせて出会った。久しぶりといっても2年ぶりくらい。それでも、ひょんなきっかけがなければ2人で待ち合わせることは一生なかったかもしれない。

ひょんなきっかけであっても、初めての待ち合わせを、2年越しにつくってくれる友人が私にはいる!それは小説にしたいくらい誇らしいこと。だから邂逅。

 

話題は他愛ないけれど、どれも心地よいストーリーだった。思い出めくりでもなく、近況報告でもなく、内省的な会話に終始できる友人は貴重なので嬉しい。

覚書:機関士はすごい、漢字の景色、本の虫、限定的な単語、隠居について、歌を聴いて涙が出るか、記号に感じる愛着 ほか

 

子どものころ友だちは、場所を離れたら、時が離れたら、もう友だちで居られなくなると思っていた。でも大人は違う。場所も時も、飛び越える力がある。

世界征服はできない、後世に名を遺すこともできないだろう、でも私にはいつの友人にだってもう一度会える力がある。それって素晴らしいことじゃないか。

 

また飲みに行こうね~!(私信)

 

▼芋(芋)

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自衛本能のはたらきだけは記憶にある

10/2

華の金曜日である。

とはいえ特別晴れやかな気持ちもなく。

 

夜、ついでに呼ばれた形の飲み会が遅めの時間からあり。

別途、職場の上司が急に雑談会をしようと言い、参加義務のないゆるいオンライン会も夕方に設定されている。

いずれにしても強い意欲の湧かない予定である。

 

言い出しっぺの上司がそこそこ偉い人なのもあり、なんだかんだオンラインで人が集まってくる。

同じフロアの同僚たちも、いざ時間が近づくとやっぱり参加しなきゃな、となった様子で、若い衆がちょっとした買い出しに行かされていた。

(念のため書いておくと、決して面倒を押し付けられたわけではなく、もう夕方だし仕事さぼって同期たちで買い物でも行ってきなよ、てなやつです)

なかなか買い物から帰ってこないねえ、と待っていると、少し距離のあるミスタードーナツまで行ってハロウィンのかわいらしいドーナツをたくさん仕入れていたようだった。

ひとつどうぞ、と持ってきてくれたので迷わずさつまいもドを頂く。

変わらずおいしいけれど、蛍光灯に照らされた味気ないオフィスではないほうが嬉しいな。食事という大切な時間をつくることなくハイカロリーハイリターンの摂取をしてしまいなんだか腑に落ちない。

 

などとどうでもいいことをダラダラと書いたが、オンライン会もほどほどに続き、途中で抜けて飲み会に向かった。

定刻が20時半と遅めの設定だったにも拘わらず、まず集まったのは2人だけ。少したってもう1人到着。まあいつものことだし、ちゃんと来るのもいつもの顔ぶれ。

 

ついでに呼ばれたはずなのに、肝心の元のメンバーが集まらず、結局見知った顔だけの会のままお開きになった。

1軒目の店のまま長く滞在したこともあり、いつもより飲み過ぎた自覚がある。

しかもワイン。(私の体質はワインと相性が悪い)

 

帰宅の途中でぐっと酔いが回り、軽い気持ちで下車して休んでいたら、少しして駅員さんに電車が終わりましたよ、と声を掛けられた。

えっ、まじかい。

このままタクシーに乗ったら絶対車中で気持ち悪くなる(私の体質は車とも相性が悪い)し、かといってあまり長く歩いていても危ない道だと感じられたため、とりあえず一番近くのコンビニへ急ぐ。めちゃくちゃ酔っているが、酔った感じを出しすぎると迷惑な客と認識されるので、平気な顔をしてとりあえず歩きまくる。

しばらくして行ける!となった瞬間、目の前の道でちょうど降車し会計をしているタクシーを見つけてにじり寄った。

15分ほど最寄り駅まで走ってもらい、料金は2100円。現金で支払った。

一件落着。

 

この記事自体、当然思い出しながら書いているわけだけど、正直細かいことはあまり覚えていない。というかまずどこの駅だったかが全く分からない。

けれど、自衛本能のはたらきだけは記憶にあるもので、タクシー料金なんかは朝起きてもきっちり覚えているのだった。

自分の世話、自分でできてえらいぞ。今度は飲みすぎるな。

 

▼飲み会で透明水彩のパレットみたいだな、と思った牛肉のカルパッチョの皿

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