生ハムと暮らしている

すぐ忘れるので文字にしよう

感受性という大義名分で自分を消耗させていないか

10/27

余裕があったはずなのに、結局とんでもなく時間すれすれに健康診断に駆け込む。

この時世のため患者は恐ろしく制限され、1時間もかからずすべての受診を完了し、血を抜かれた空腹の人間が急に平日の明るみに放たれた。吸血鬼になって生き血を啜ってやろうか。

 

特にそんなものは美味しそうに思えないので、軽く化粧をしていつものお出かけセットをリュックに放り込み、海辺の公園を目指す。

先日海を見てから、海というものも悪くないなと思っている。

 

海浜のわずかな草間で西日に目を細め前面すべての景色を一人占めしていると、足取り軽くTシャツ1枚のカメラマンが浜にやってきた。夕陽に向かって三脚を立てる。

ちょうど私の位置からiPhoneを構えると、端にカメラマンが、もう一方にその被写体が収まった。

この空間には2人の人間と太陽しか存在しないみたいだ。

誰もいない最高の浜辺に甘んじて少々のアルコールを嗜んでいたので、今何か声をかけたらドラマが生まれるだろうか、という程度に浮ついたことを考える。魅惑的な提案だ。でも、どんなに酔ってもそんなことはしないと思う。それは恐れかもしれないし期待かもしれない。そんな風に自分をドラマに押し出すほど飢えてなどいない、という自意識かもしれない。

 

浜辺の門がじきに閉まると放送が流れ、のろのろと敷物などをしまい陸に戻った。陸側の園に浜はないが、小さな堤防が続き、鳥が浅瀬に群れたり離れたりする。

水際に見えた大きな鷺に近づきたくて、海に続くコンクリート岸へ足を伸ばした。

人がいなくて静かで眼前には自然のゆったりとした画と音だけがある。ここが、遠い北欧で見たフィヨルドと何が違うと言えるだろう。

波は穏やかで水面は整列した織物のよう、夕日とその周りの藍が滲みながら反射してゆるやかな色合いが広がり、それは私には夜明けの色に思えた。宵の色と、夜明けの色と、何が違うか私は説明ができない。

 

鷺は近づく前に別の場所へと飛び立ち、仕方がないので他の鳥が羽音を交換して飛び去っていくのを眺める。

今後ろから誰かに押されて海に沈んだら世界は気づきもしないだろう。なんて、本の読み過ぎかもね。

 

海を好きになれてよかったと思う。好きなものは多いほどよい。

フィヨルドを見たのは夏だった。今度は冬の海を見に来るのも良いかもしれない。

 

 

何にも邪魔されない心の感度のこまやかな揺れを、やたらと言葉にしてしまった。夢の記録に現実が雁字搦めにされるみたいに、表現してしまったことで後戻りできない感覚がある。

感受性という大義名分で自分を消耗させていないか?

微細な振動は、もっと体に吸収させて自分という存在を休ませてもいいのではないか?

急にそんなことを思った。

 

答えはまだない。

 

▼西向きて

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