生ハムと暮らしている

すぐ忘れるので文字にしよう

愛すべきコミュニケーション

7/15

朝から筋トレをしてみることにした。

本当に健康のことをめちゃくちゃ考えていて、無理なく効率的に栄養素を摂る食事とか、自分に合った運動のしかただとか。

成果主義はあまりなく、ただ生活のパズルをはめて楽しんでる感じなので、まあ趣味が増えただけ。

 

そして早起きしたのに腹壊す。出社が遅れそうである。

絶対に昨日の激辛麺のせいだ。身から出た錆。身に刺さる棘。

 

コロナが始まったころ鬱々とした気分が最高潮に達したあたり、Twitterでフォローしている方の一人がLINEのオープンチャットを開設していて、参加した。

どうでもいいこと話してください、コミュニケーションコストを下げるために敬語はナシ、みたいなルールだったと思う。

初めのうちは会話に参加したりしていたけど、徐々に馴れ合いもエスカレートしてきて、今は見ているだけ。でも飲み屋の隣の席の話みたいで、時々覗くと興味深く追ったりする。

人の生活を一方的につまみ食いして趣味が悪い気もするけど、正規の使い方だろう。気になる方いたら教えるのでどうぞ。

 

そして、今日の友人との食事は最高だった…。

今の会社で、なんだかんだ友人と呼べる人物は外国人しかいない。別に付き合いの選定の基準には全く関係ないけど、互いに興味のある人物と仲良くなったらそうだった。

けれど、こうやって期間を空けてたまに会って話すと、向こうも総じてそう(多様な友人の友人がいる)なので、近況を聞くことは物語の導入に近く、世で宙に浮いているダイバーシティという言葉がよりばかばかしく、言語をはじめとした文化や年齢やSOGIなどのギャップを埋めるコストを軽々と飛び越える知的喜びがある。

そうして少々の酔いと共にイヤフォンで音楽に満たされて地下鉄に揺られる心地よ。

たいそうな人生でもないが、こういった誇れる友人らのおかげでようやく楽しみがある。

 

それでも、対面で人と食事をする頻度を落とすことは、これから世界のスタンダードなのかもしれないね、とも話した。

想像を超える脅威はいつか来るものだったとも思うし、"生活様式"の変化に恨めしい気持ちもない、ただこうした移り変わりは拒めるものではなく、私たちは当たり前だと思っていた愛すべきコミュニケーション、共感とか信頼とかそういうもの(政治とのコミュニケーションも含めて)の創り方をupdateすることで強くなるべきなのかもしれない。

 

▼いい店でした

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